「自然学」事はじめ
かつての時代にあっては、自然科学は自然を科学する心であり、思想でもあった。
たとえばギリシャ時代の四大(しだい)-現代科学の立場からすれば、確かにプリミティブ (幼稚)ではあったが、少なくともわれわれ生き物としての人類にとっての自然を、総合的に検索し総合的に科学しようとする思想であったことについては、誰しもが否定しよう
もないと言えよう。
時が移ろい、文明が進展し社会が発展する中で、自然科学も目覚ましい変貌(へんぼう)を遂げたことは事実である。
特に20世紀の後半期にさしかかってのからの変貌はすさまじいばかりであり、20世紀は科学技術の世紀である、などと宣伝されるまでに至っている。
しかしながら、確かに一面的にはすばらしいと見られる大きな変貌の中で、科学する心も大きな変貌を遂げてしまった。
われわれ人類をとりまく自然を全的に捉え、科学しようとする姿勢なり思想なりが、自然科学の領域から消え失せてしまったのである。
学問が高度化する中で、より解析的な手法が導入され、より解析的な手法が駆使されなくてはならないことも事実である。
しかしながら、学問の高度化と学問の精緻化とは全く違った次元の概念であることに留意しなくてはならない。
20世紀の自然科学が、事象を細かくとらえ、精緻ともいえる学問体系を確立した事については、否定するところではない。
しかしながら、事象を細分化し、その細分化した部分について解析し理論化したにすぎないのである。
事象を細分化し、その細分化した部分について如何に事象精緻に解析し論理化したところで、対象とした部分について解析し論理化したにしか過ぎないのである。
事象を細分化し、その細分化した部分について究めつくしたところで、事象そのものについて究めたことにはならない。
ましてや事象そのものについての誤った認識からスタートした場合には、部分すらも究めえないことになってしまう。
現代の精緻であるとも言える自然科学の体系、その現代自然科学体系における本質的な欠 陥は、事象を解析的にとらえようとするあまり、事象そのものではなく、事象の分部のみを解析し論理化しようとする点に存すると言えよう。事象を事象ととして全的にとらえ,科学するなかにしか、学問の高度化はあり得ないのである。
その意味において、事象を全的にとらえかつ解析する「自然学」を勃興させなくてはならない。
土と水の自然学より抜粋 |